ナイチンゲールといえば、皆さんはどんなイメージをお持ちですか?
彼女を表す代名詞のような言葉で、「白衣の天使」という言葉があります。
実はそんなナイチンゲールですが、「近代看護教育の母」ともいわれており、彼女の遺した功績は統計学とも深いつながりがあることをご存じでしたか。
そこで今回は、ナイチンゲールのエピソードを通して、「統計学の母」ともよばれる彼女の素晴らしい功績をお伝えします!
この記事を読むと分かること
- ナイチンゲールと統計学のつながり
- ナイチンゲールの功績
- 鶏のとさかグラフとは
雑学としてもすごく面白いお話ですので、是非最後まで楽しんで読んでいただければ幸いです!
ナイチンゲールとクリミア戦争
看護の道を志すきっかけ
フローレンス・ナイチンゲール(1820-1910)は、イギリスの裕福な家庭で生まれ育ちました。
当時のイギリスは産業革命で急速に発展した一方、労働者階級をうみだし、非常に激しい貧富の差が広がっていました。
富裕層は、ぜいたくな暮らしを楽しむばかりではなく、貧しい人々に慈善活動をするという大事なつとめがありました。
彼女は、飢えに苦しむ人、病人たちの悲惨な状況を目の当たりにし、「もっと役に立つことをしたい!」と思うようになります。
これが「看護」の道を志すきっかけとなりました。
しかし、それに家族は大反対。そのころの看護師は、不潔でだらしがない仕事とされていたためです。
いまでは考えられないですよね。
それでも諦めなかった彼女は、家族をしぶしぶ認めさせ、ドイツで看護の実習で実務を学びます。
そして、ロンドンの慈善病院で本格的に看護の仕事をはじめることができたのです。
クリミア戦争での活躍
時を同じくして、ヨーロッパではクリミア戦争と呼ばれる大きな戦争が勃発しました。
クリミア戦争(1853-1856)
南への勢力拡大をねらっていたロシアとトルコの間ではじまった。ロシアの強い軍事力におされ、トルコはたちまち劣勢。トルコがロシアの支配下におかれると、大事な通商路がおびやかされるおそれがあるため、イギリスとフランスがロシアに宣戦を布告。結局、ロシアの敗北で終わる。連合軍7万人、ロシア軍13万人の戦死者がでる大きな戦争だった。
ナイチンゲールは38人の看護団を結成し、トルコのスクタリ野戦病院にかけつけました。
しかし、そこは見るにたえない惨状が広がっていたのです。
当時の病院は衛生管理の意識が低く、ケガを負った兵士が汚れた軍服のまま寝かされており、患者のすぐ横をネズミが通りすぎるような劣悪な環境でした。
食べ物の状態も悪く、パンはすっぱく、バターはくさり、肉は湿った革のよう。
こうした状況を改善するためにも、彼女たちはすぐさま仕事にとりかかろうとしますが、男社会の軍隊で、ろくに看護をやらせてもらえませんでした。
彼女たちは看護以外のできることからはじめ、懸命な努力のおかげで看護をさせてもらえるようになります。
マットレスをつくり、負傷者が運び込まれると体を洗って寝かせ、包帯を巻き続けました。
調理場や洗濯場を整え、負傷者に栄養のある食事やきれいなシャツを用意しました。
彼女は夜ふけまで明かりを手に病棟の巡回し続けました。
これが「ランプの貴婦人」と呼ばれる由来です。
彼女の献身的な努力のおかげで、病院内の死亡率は激減。
派遣当時の40%から2%まで下がりました。
ナイチンゲールと統計学のつながり
クリミア戦争が終結し、最後の患者を見送り、彼女も戦地を後にしました。
彼女の医療改革はこれだけにとどまりません。
鶏のとさかグラフ
クリミア戦争後、イギリス国民の英雄として扱われていた彼女は、ビクトリア女王と会見することになりました。
そこで彼女は賛辞をうけるのではなく、野戦病院の問題点を説明しました。
「多くの兵士が犠牲になった原因は、戦争でのケガではなく、院内の劣悪な衛生環境、健康管理にある」
そのことを誰にでもわかりやすく説明するために、「こうもりグラフ」「鶏のとさかグラフ」などを使いました。
(図:鶏のとさかグラフ)
鶏のとさかグラフは、兵士の死因を月別にグラフにしたものです。
円を12カ月で分割し、放射状にのびているのが死亡数です。色は次のように表されています。
- 赤:負傷による死亡
- 黒:その他の死亡
- 青:衛生状態を改善すれば予防可能な疾患
死亡数を視覚化することで、衛生状態を改善すれば予防可能な疾患が多いことが、誰が見ても一目瞭然です。
このグラフにより、病院の衛生状態は見直されることになりました。
ナイチンゲールの功績
その後、イギリス国内でも医療改革が進められていきます。
1860年にはクリミア戦争で集められたナイチンゲール基金をもとに、ナイチンゲール看護学校を創設します。
現在では当たり前となっているナースコール、ナースステーションをはじめ、現代の病院の基本設計であるパビリオン式設計に至るまで、実は彼女が考案したものなんです。
さらに、民間病院向けの「病院覚書」、一般家庭向けの「看護覚書」なども執筆。家での看護の発展にも大きく貢献しました。
あまりの激務から晩年は視力を失い、寝たきりの状態になってしまいます。
それでも医療の推進をつづけ、世界の医療を大きく変えました。
ナイチンゲールが影響をうけた2人の学者
上流家庭で育った彼女はとても勉強熱心で、ギリシア語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、それに歴史や哲学など、父からいろいろな学問を学びました。
なかでも、ナイチンゲールは数学に強い興味を示したといいます。
そこで、数学者ジェームス・ジョセフ・シルベスター(1814-1897)から個人指導を受けたこともあるようです。
その他にも、統計学者として有名なアドルフ・ケトレー(1796-1874)とも親交をもったといわれています。
ジェームス・ジョセフ・シルベスター
シルベスターは、固有値や階数など線形代数の基礎を築いたイギリスの数学者です。
2つの多項式が共通根を持つかどうかを判定する「シルベスター行列」や「シルベスター数列」と呼ばれるとても面白い性質を持つ数列も有名です。
シルベスターが数学者としては不遇時代、数学を離れ保険会社の統計会計士をしていたときにアルバイトで数学を教えていたのがナイチンゲールです。
アドルフ・ケトレー
ケトレーは、平均の概念を人間にあてはめたベルギーの数学者です。
近代統計学との祖と云われ、肥満度の指標として使われるBMIも彼が考案したものです。
医学雑誌に掲載された兵士5738人の胸囲を集計し、胸囲が40インチ弱の値を中心とした正規分布を描くことに気づきました。
それまで、正規分布は、天体観測における観測誤差の分布としてつかわれていました。
ケトレーは、出生、結婚、死亡、犯罪などの発生率という人間社会のさまざまなデータを統計によって分析することに生涯を費やしました。
1860年には、ナイチンゲールとケトレーは互いに協力して、第4回国際統計会議(国際統計協会の前身)において、
「統計の取り方がバラバラであっては、有効な比較分析ができない」
と主張して、衛生統計における統一の基準を提案し採択させています。
ナイチンゲールが遺したことば
さいごに、ナイチンゲールが残した名言をご紹介します。
「あなた方は進歩し続けない限りは退歩していることになるのです。目的を高く掲げなさい。」
Unless it keeps making progress, you’ll retrogress. Put up the purpose highly.
現状維持で満足してないでしょうか?
きちんと行動できていますか?
「人の思いは、言葉に変わることで無駄にされているように、私には思えるのです。
それらは皆、結果をもたらす行動に変わるべきものなのです。」
I think one’s feelings waste themselves in words; they ought all to be distilled into actions which bring results.
まとめ
本記事では、ナイチンゲールの功績や、統計学とのつながりについてご紹介しました。
ナイチンゲールの凄さは、その行動力、そして失敗しても改善して行動しつづける姿勢だと思います。
これまでの常識に立ち向かったナイチンゲールの言葉には非常に重みがあります。
そして、ナイチンゲールは、クリミア戦争の経験を通して、統計学にもとづき医療改革を進めました。
ナイチンゲールが「統計学の母」といわれる理由も納得できますね。
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