今回はイギリスの統計学者であるロナルド・フィッシャーついてご紹介いきたいと思います!
この記事を読むと分かること
- ロナルド・フィッシャーについて
- フィッシャーの生い立ちやキャリア
- フィッシャーの残した功績
是非最後まで楽しんでください!
ロナルド・フィッシャーについて
正式な名前は、サー・ロナルド・エイルマー・フィッシャーです。
イギリスの統計学者で、現代の推計統計学の確立者であり、集団遺伝学の創始者の1人でもあります。また、ネオダーウィニズムを代表する遺伝学者・進化生物学者です。
ロナルド・フィッシャーの出身や生い立ち
ロナルド・フィッシャーは、1890年にイギリスロンドンの裕福な家庭に生まれましたが、彼が14歳の時に母親を病気で亡くし、その1年半後に父親は失業します。
少年時代から数学の才能に優れていて、生物学に興味を持ちました。
彼の目は近視だったため、目の疲れを防ぐために目を凝らすことを避け、数学の問題を可視化し、頭の中で問題を解決するユニークな能力を開発したそうです。
1909年、奨学金でケンブリッジ大学に進みます。
そこで、統計学と優生学に強い興味をもったロナルド・フィッシャーは、学生時代に優生学研究会をつくりました。
ケンブリッジ大学を卒業後、第一次世界大戦が始まった頃は、企業の統計係や中学校の教職をしながら、遺伝学と統計学の研究を続けます。
ロナルド・フィッシャーの家族とキャリア
1917年27歳の時に、アイリーン・ギネスと結婚し、その後8人の子供をもうけます。(1人の娘を幼い時に亡くし、1人の息子を戦争で亡くしています)
ロナルド・フィッシャーは、子だくさんであったため、彼が背負った経済的負担が、彼の遺伝学・進化論的確信を深める原因の一つになったとも言われています。
1919年になると、生計のために、農場試験場の統計研究員に就職し、大量のデータに関する研究を行いました。
ちなみに、結婚生活は第二次世界大戦が始まる頃に破綻しています。彼はこの農場試験場で実験を重ね、のちに実験計画法や分散分析、フィッシャーの正確確率検定など、人生を代表する功績を残すことになります。
また、ロナルド・フィッシャーと同じイギリス出身で、近代統計学の統計学者として有名なカールピアソンと彼の息子であるエゴンピアソンとは統計学を巡って生涯論争を繰り広げることになります。
ロナルド・フィッシャーの残した功績
ロナルド・フィッシャーは、農場試験の研究員のあとの数年間で、実験計画法、分散分析法、小標本の統計論といった革新的な研究を次々と発表します。
この時期がまさに彼の統計学者としての黄金期といっても過言ではないでしょう。
彼の新しい統計学理論は、いつもデータの研究から生まれます。
ロナルド・フィッシャーは、現代の統計学を築いた人物の1人です。
実験の母集団をランダムに選択する必要があることを唱え、分散分析法やF分布などをつくり、これが現代の統計実験の基礎となりました。
彼の新しい統計学理論は、データの研究から始まる事が特徴です。
実験計画法は、今では医学、工学、社会調査やマーケティングの分野でも使われており、実験計画法を元にして、田口玄一により品質工学という新たな分野も生まれました。
実験計画法と分散分析
実験計画法は、ロナルド・フィッシャーが1920年代に農学試験から発展させた、統計学です。
効率のよい実験方法を設計し、結果を適切に解析する事を目的とした統計学の応用分野です。最適な実験の方法を考えることを実験計画法、実験により得られたデータを最適な方法で分析をすることを分散分析といいます。
実験計画法を行う際に、誤差をできるだけ小さくし誤差の大きさを推定する方法に「反復」「無作為化(ランダム化)」「局所管理」の3つがあり、これをフィッシャーの3原則と呼ばれています。
フィッシャーの正確確率検定
統計学の検定方法の1つに、フィッシャーの正確確率検定があります。
フィッシャーの正確確率検定は、分割表の中にある、各行と各列の属性が独立であるかを検定する方法です。
同じ集計表の検定に、ピアソンが開発したカイニ乗検定があります。
この2つの検定法の違いは、フィッシャーの正確確率検定は、p値を直接計算するのに対して、カイニ乗検定は、カイニ乗値を利用して検定をします。
そして、データの数が多ければ、カイニ乗検定を使い、データの数か少なければ、フィッシャーの正確確率検定を使います。
ちなみに、データ数が5以下のセルがあれば、少ないと判断するのが一般的です。
この検定方法は、参照できるデータの数が少ない場合に有効です。
受賞歴
1938年「ロイヤルメダル」受賞
1953年「クルーニアン・メダル」受賞
1955年「コプリ・メダル」受賞
1958年「ダーウィンメダル」受賞
まとめ
1943年に母校のケンブリッジ大学に招かれ、大学に戻ったレオナルド・フィッシャーは、遺伝学部の学部長に就任、統計学者としては衰退していたものの、今までの功績が認められ、この次期に数多くの賞が与えられ、1952念にはナイトの称号が与えられます。
そして、1957年にケンブリッジ大学を退官した後、オーストラリアのアデレードにある大学の研究員として招かれ、そのまま晩年をそこで過ごし、1962年72歳で亡くなりました。
彼の功績の1つである、実験計画法は、現代では、薬物実験や臨床試験に実験にも生かされています。
彼が残した功績は今後も受け継がれていくでしょう。